2017年6月28日水曜日

「私の分化」の現代性-神谷絢栄作品《無題》2016を題材に-

《無題》2016年制作 写真提供:島袋八起
まとめ
 2017年の日本では、SNSを利用したコミュニケーションは一般的であるといえる。さらに、複数のアカウントを利用して、「私」の「分化」を行う事も珍しくない。神谷絢栄作品《無題》2016(以下、《無題》)は、そのような時代の「分化な私」のもつ感性を表現した作品であると言える。


作品内容
 《無題》は、整形アプリを使って、自画像を整形加工し、異なるヴァージョンを複数制作し、何通りもの「顔」を印刷したものを壁面に敷き詰めることによって作品を1次的に成立させている。


 言い換えると、自分の顔の2次創作(a1,a2,a3,…,an)をいくつも生み出し、それを集合させて一つの統合された作品Aを作りだすという事を行っている。


 そして、鑑賞者は、その「作品A」の中から選好したanを持ち去る。そして「作品A」は複数の鑑賞者の美的趣味によって、いびつな形に変化し展示のプロセスを経てその終了後に全く作者の予期できない、「作品A'」が制作される事になる。


つみつみ性
 この作品には、いくつものつみつみ性を見出す事ができる。
 第一に整形アプリを利用して見た目を現実と乖離させることに、つみつみ性(戯れ)を見出すことができる。第二にそれを何度も繰り返して、敷き詰めるという点に、つみつみ性(執積)を見出すことができる。第三に、鑑賞者による摘み取りというつみつみ性(欠落、破壊)を見出すことができる。


私の不在の顕在化
 この作品は、本来単独である「私の見た目」の複製制作を、大量に行う事によって得られる、微細な美の差異化のカタログであり、作者の細部に宿る美へのこだわりを見出す事ができる。 


 またそれを、整形アプリというお手軽なツールを利用して実現している制作スタイルには器用仕事(≒野生の思考)を見出す事もできる。


 大塚英志の指摘★1のとおり、「私」という言葉が近代にもたらされた虚構性を伴った言葉であるように、「私の見た目」もまた近代に流入してきた美の基準の影響下である事の虚構性を暴くかのようでもある。
 
 僕たちの「私」という主体への認識は、インターネット時代にはSNS等による「複数アカウント」の存在が当たり前のように、「私(仮)」でいられる事が当たり前であるという風に変化した。


 それは、例えば双子のように、僅かなビジュアルの差異や性格の違いという、分化がインターネット上では容易かつ疑似的に可能になった事を表してもいる。


 ネット上ではこのようにたやすく「私(仮)」を生きることができるので、「この私」のビジュアル自体も単一性から複数性へと分岐させたいという同時代的な欲望を、この作品は表現してもいるかのようでもある。


 しかしながら現状の社会制度は、そのインターネットによる「分化な私」の欲望を抑圧する。例えるならば、運転免許証。これは、「この私」のビジュアルを管理運営上煩雑になる為に単一で固定する。


「私」から、「分化な私」が当たり前になるというインターネット時代の主体の変化は、自然の無秩序を秩序だった生活へと高めた現状の社会制度に対する反逆でもある。インターネット上の振る舞いの中だけでは大人になるという社会制度への参入に対してのキャンセルコマンドを手に入れたともいえる。


 この「分化な私」への没頭は「私の不在」を引き起こす事態となってはいないだろうか。最終的な作品A'に見られる鑑賞者≒消費者の選好による、ヴィジュアルの欠落性はその「私の不在」を顕在化しているようでもある。


「私」から「私(仮)」へ、そして「分化な私」への主体の変化を作品へと固着させたカミヤアヤエの作品《無題》2016は、「分化な私」のもたらす「私の不在」という欠落感(≒つみの意識)を僕たちに自覚的にさせるという再帰性を帯びた時代を表象する作品と言える。

★1『物語消滅論』大塚英志 2004

内容アドバイス:島袋八起 twitterID:@yaoki_dokidoki

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